北風ブログ-736
2023/2/24 更新
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戦国時代の武将であった武田信玄という方、皆さんよくご存じだと思います。「甲斐の虎」と呼ばれた武田信玄の率いる武田軍は当時最強と言われ、その武勇はのちの天下人「織田信長」の耳にも届き、あの織田信長を恐れさせるほどでした。天下を目指していた武田信玄が、上洛を前に病に倒れることがなければ、日本の歴史は変わっていたかもしれないとも言われています。武田信玄と言えば、「風林火山」の印象がありますね。これは武田信玄の軍旗に刻まれた14文字に由来しています。
「疾きこと風のごとく、徐かなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし」という内容で、武田信玄が尊敬した古代中国の兵法書・孫子から引用した言葉です。これは、戦での戒めであるとともに、風林火山の軍旗は多くの戦国大名に恐怖を与えたと言います。実は武田信玄は、神童と評されるほど、武術にも学問にも優れていました。幼い武田信玄が、2~3日で「庭訓往来」(ていきんおうらい)という武士の心得を記した書の中身をすべて覚えてしまったことに感嘆した教育係の和尚が、「孫子」や「三略」など、中国の軍略書まで教え込んだとの逸話もあるほどです。
その武田信玄が「人は城、人は石垣、人は堀」と言いました。大事なのは「人」だというわけです。石垣を高くして、堀を深く掘ることにより城をどれだけ強固にしても、人の心が離れてしまえば世の中を収めることができない、というわけです。戦国時代と言えば、大名は堅固な城に住んでいるのが普通でした。しかし、武田信玄は城を持たず躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を拠点としていました。また躑躅ヶ崎館の近隣に配下の武将を住まわせ、まさに文字どおり「人は城、人は石垣、人は堀」としていました。このように信頼で結びついた武田軍でしたが、武田信玄が亡くなってからの武田勝頼の時代には、家臣団の分裂が起こります。さらに、長篠の合戦での大敗を機に一気に転落していき、身内にも裏切られて武田家は散々な最後となりました。やはり、大きな規定因子は「人」だったということですよね。
実は、武田信玄の言葉は「人は城、人は石垣、人は堀」で終わりではなく続きがあります。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(あだ)は敵なり」と続きます。熱い情を持って接すれば、強固な城以上に人は国を守ってくれるし、仇を感じるような振る舞いをすれば、いざという時自分を護るどころか裏切られ窮地にたたされるという意味です。現在の社会にも通じる言葉です。