北風ブログー737
2023/3/3更新
評価−6
ここまでの話で、武田信玄は、「人は城、人は石垣、人は堀」と言いましたし、人物評価がむつかしいことに触れてきました。でも実は、評価する人自体を評価するメカニズムがありません。たしかに、評価する方は、その組織が良くなるか悪くなるかがその評価者の評価になるわけですが、組織が良くなるか悪くなるかは、その評価者の評価行為だけで決まるわけでないので、そのような「評価者の評価」はとても難しいということです。少しわかりにくいですね。つまりは、その時の状況も含めて評価した方の評価は、時代が決めるということです。でも、例えば大企業の人事担当の方が左でも右でも偏向していたとしても、その方が採用に関与した雇用者はその企業の採用人員全体から見ると微々たるものですので、その企業の善し悪しにはほとんど関係しません。でも、その積み重ねが企業自体への評価になりますよね。
話は戻ります。企業の雇用にかかわっていた方とお話しする機会はよくありますが、結局は「被面接者の印象」に帰着するようです。面接官が聞く内容についてはどの被面接者もあらかじめ練習してきているのでどれも差が出てきません。
「当社の志望動機はなにですか?」
「どのような仕事をしたいですか?」
「人生の目標はなにですか?」
「5年後どのような当社における自己像をえがいていますか?」
「趣味はなにですか?」
「休日はどのように過ごしていますか?」などなど、ある意味たわいのない質問です。
とするとその決め手は詰まるところ、「被評価者の全体的な印象」となります。採用時もそうですが、採用した後の人物評価にもその被評価者の印象が関係します。確かに仕事の能力が明らかに他人に比べて劣っていればその評価は下がりますが、多くはそうではありません。「りんご」と「バナナ」のどちらのほうの評価が高いかとなると、1.甘さ、2.歯ごたえ、3.爽快感、4.ビタミン含有量、5.価格などの評価基準を決めたとしても、結局はまず自分の好きなものが決まっていてそれに応じて点数をつけるだけです。人物評価もまさしくそうです。
M1グランプリの漫才のレベル評価の評点を見ていても、明らかにバイアスがあります。好き嫌いです。教授の選考委員会もその通りです。1.臨床能力、2.研究能力、3.教育能力などが教授選考の評価基準となります。でも、教授戦の最中には候補者の関連の方から選考委員の方にいろいろな働きかけがあります。もし1.臨床能力、2.研究能力、3.教育能力が絶対的な評価基準であれば、最初から誰が選考されるか自動的に数値化により決まっているのです。でも、そうでないから選考委員への働きかけがあるのですよね。で、それにより大きく人物評価は変わります。「この方を自分たちの仲間に入れていいのか?」という村社会の発想です。選ばれた方は、その長老者に感謝して次は自分が長老者になりたいと思うのです。マルクスが言うように「歴史は繰り返す」です。でも、本当は、「歴史は繰り返す」はローマの歴史家クルチュウス=ルーフスの言葉で、過去に起こったことは、同じようにして、その後の時代にも繰り返し起こるという意味です。
結局は、「人間が人間を評価することは、正確な意味合いではできない」ということですね。いいか悪いかの評価は、トップが行い、その結果が良い評価でそれが正しいならその組織は繁栄し、その評価が正しくないならその組織はつぶれるのです。
でも、大丈夫です。トップの後釜はいます。最大限いまのトップの方は頑張るしかないのです。それがトップとしての矜持です。これがこのシリーズの結論です。